『納税者の権利救済制度確立のたたかい』(3) 著著、執筆TOP

米占領政策の一環としてのシャウプ勧告

 シャウプ税制とは、1949年8月27日のシャウプ税制使節団の報告に基づいて1950年におこなわれた税制の大改革を指しています。内容的には、シャウプ税制によって大きく変更されましたが、法律としては、昭和22(1947)年の所得税法、法人税法等の改正の形態をとっていますので、昭和22年税法はそのまま生き残っていたわけです。

 シャウプ税制は、もともとアメリカ占領軍の経済顧問であったドッジによるインフレ抑制と「日本経済安定化」のための政策である「経済安定9原則」の一環として勧告、立法されたものでした。

 ドッジ・ラインの9原則とは、@超均衡予算(税収の確保と歳出の削減)、A徴税の強化、B融資の制限、C賃金の抑制,D物価統制、E貿易・為替の管理、F輸出貿易の振興、G重要国産品の増産、H食糧供出の改善などを内容としており、シャウプ税制は、その第2項目の徴税の強化を具体化するものでした。従って、「総合課税の徹底化、富裕税(純資産税)の創設、地方自治体の自主財源の強化、税務行政の近代化」など評価すべき点を持っていましたが、その基本的性格は、「戦後日本資本主義の復興に対応する大衆課税の再編成と資本蓄積促進の税制」という特徴を持っていました。総合課税の徹底化は、それ自体としては民主的税制の原則に合致するものでしたが、課税最低限が、戦後のインフレによって異常に引き下げられていた結果、所得税自体が申告納税の導入と相まってサラリーマンはもちろん、自営業者や、農家にとっては耐え難いものとして作用しました。給与所得者には、徹底した源泉徴収によって天引き課税されていましたので課税もれはほとんどありませんでした。

 当時を知るものの証言を見ましょう。昭和22(1947)年の所得税の申告状況が、前年の4倍くらいを予定していたものが、予定申告の状況をみると1・5倍ないし2倍程度にしかならず、これでは財政が破たんするというので、「直税部長会議とか、財務局の所得税課長会議とかを開いて、具体的に相談し、……その時の提案として、申告所得税の(予算申告による)予定納税額が、仮更正をすれば大体この程度のものはできるのではないかという期待数値を、各財務局にそれとなく方針として持って帰ってもらったわけですね。それが目標の始まりですから、22年(1947)年の8月ころですよ」(『昭和税制の回顧と展望』上巻、大蔵財務協会、座談会における忠佐市氏の発言)という状態でした。さらに発言を追ってみると次のような驚くべき発言が飛び出してきます。

平田 「目標といっても、その前から、主税局は歳入見込みで毎年どれぐらい入れるか、財務局からとっていた。それを表面化してやったということですね」「それで本式になったのはやっぱり23年以降でしょう」
忠 「それは22年の暮れからですよ」
清野 「忠さん、そうすると、いわゆる目標制度というのは、主税局が、あるいは忠さんが考え出したわけですか」
忠 「スタートは主税局でしょうね」
平田 「制度という言葉はいやがっていました。……そういっても実際はそれを税務署ごとに、しかも主な税目ごとに見積って、一応それが公式的なものになると、今度は目標で天下り課税だということになったわけです」。
清野 「第一線で受けた感じは、なるほど平田さんのご説明のようなことで、主税局から出てきたのですが、ある時期からむしろ進駐軍の方が前面に出て、それがものすごく強烈でしたね」
平田 「……23年の1月から3月にかけて部長会議なんかを連続開いて更正決定をやって徴税の強化をはかったように記憶しています。それで大変問題が出てきたわけだけれども、幸い申告所得税はそれで急に収入が入って4月末までには予算を突破しちゃって、徴税の目的は達したわけです。……(その結果として)異議の申し立てが続出し、滞納が続出して、23年は税としては大変な状態になったというのが実情です。……当時は、税収確保というのはインフレ防止の防波堤として非常に重要だということであった」

 以上は、『昭和税制の回顧と展望』〔(注)忠佐市=シャウプ税制の企画立案に当たった、当時大蔵省主税局、平田敬一郎=元大蔵省主税局長、清野真=元国税庁直税部長〕と題する座談会形式の回顧録からの引用ですが、いずれも、当時の主税局長(現在の国税庁と財務省主税局を統合したような部署、当時は国税庁は大蔵省から独立していませんでした)、直税部長など、大蔵省の幹部を経験した人たちです。申告納税制度とは名ばかりで、その実態は占領軍の命令によって、上からの割当課税と滞納処分を、占領軍の直接の指令と援助の下におこなっていたことが赤裸々に語られています。

 ここで、所得税予算申告と仮更正という聞き慣れない言葉が出てきますので説明を加えておきます。昭和22年税制改正で申告納税制度が導入されましたが、当時は「現年度課税」(その年の所得税をその年度中に申告納付する)で、個人所得税については、その年の所得について毎年4月、7月、10月、翌年1月の4回に分けて3回は予算申告、最終回に確定申告をする制度になっていました。従って「仮更正」というのは、その予算申告の額について申告額を更正して所得をつり上げるということをしたわけです。従って、前年実績に基づいて、前年の確定税額の3分の1を予定納税するという現在の方式とはまったく違ったものであり、しかも、年間を通じて初めて所得が確定するはずのものについて予算申告の段階で更正処分をして、それを強制的に徴収するというやり方は、まったく納税者の権利を無視したものとして、許せない制度だったといえます。

 しかも、それが、超憲法的な存在であった占領軍の指令に基づいて、ジープや拳銃で直接におこなわれていたのです。

シャウプ税制の役割・大衆課税強化による税収確保と資本蓄積の促進

 このような状況のなかで、インフレの収束による日本経済の「安定化」、それを支える税収の確保を目的として誕生したのがシャウプ税制であったという歴史的な事実と、それが当初果たそうとしていた役割を確認しておくことは重要だと思います。

 従って、シャウプ税制の積極面が評価されるようになったのは、その導入時ではなく、日本経済の「高度成長期」が過ぎて、課税最低限の引き上げや、財政硬直化が問題になり、EC型付加価値税の導入などが議論されるようになり、シャウプ税制の直接税中心、総合累進課税の原則が大きく崩されようとしてきたころからです。

 そもそも、シャウプ税制とは、おおまかにいってどういうものであったのか。それがどうして「日本経済の安定化やそれを支える税収の確保、資本蓄積による独占資本の再編強化」(新日本出版社『社会科学総合辞典』354頁)をもたらすことができたのかを簡単にみておきたいと思います。

 シャウプ税制では、法人(大企業を含めて)は株主の集合体にすぎず実体はない(これを「法人擬制税」といいます)ので、法人税は株主に配当される利益に対する所得税の「前取り」であり、法人間の受取配当には課税しない、個人に配当された配当には法人税がかけられているから、法人税相当額を個人の所得税から税額控除をする、その反面、個人所得については、すべての所得を総合して累進的な税率で課税することによって、法人税、個人所得課税全体を総合的に見れば民主的で公平な税制となる、という考え方を基礎においています。

 ですから、シャウプ税制は、法人・個人を一体とした税体系であって切り放して議論すべきではない、という主張がされていました。

 この「理論」は、資本主義社会の実態を見た場合、まったく現実離れしたものであることはだれの目にも明らかであると思います。

 しかし、実際には、現在でも基本的にはこの考え方が維持されています。もちろん、この考え方は大企業優遇税制であるという批判が強く、かなり「修正」されてはきましたが、いまだに法人間の受取配当の「益金不算入」、個人の配当所得に対する税額控除〔配当控除〕などが生き続けています。

 このような理由から、シャウプ税制の積極面として、直接税中心主義、個人所得課税における総合累進課税、地方財政の確立などが評価されているわけで、全体の体系は決して民主的な税制であったとはいえません。

協議団の発足

 つぎに、シャウプ税制は、不服申し立て制度や税務訴訟についてどのような制度をもたらしたかについてみておきたいと思います。

 シャウプ税制において、税務行政面で大きく変えられたのは、第一に青色申告制度の導入と第二に協議団制度の創設です。

 青色申告制度は、日本の税制が、戦前から賦課課税制度で、国民の間に記帳慣行がなかったことから、前述のような割当課税などが横行する原因になっていたものと、記帳と自主計算の慣行を作るために、記帳に基づいて申告する者に特典を与え、これを助長するという建て前で導入されたものです。

 青色申告を選択すると、記帳と決算書の提出が義務づけられるのと引き換えに、更正処分には帳簿書類を調査すること、理由を付記することなどが義務づけられること、青色事業専従者の給与が認められることなどの特典が認められました。この基本構造は現在でも維持されています。しかし、それが、当初のうたい文句のように機能したわけではありません。むしろ、青色申告者を青色申告会などに組織して、納税協力団体に仕上げ、民商などの自主的・民主的な納税者団体を分裂させるための手段に利用されました。

 また、税務調査にあたっては、その本来の趣旨とは違って、帳簿を尊重せず、わずかな記帳の間違いを理由としてさかのぼって青色申告の承認を取り消し、理由付記のない更正処分を乱発するという税務行政が続きました。青色申告の取り消しは、それだけで専従者給与の否認につながり、多額の増差税額の更正ができるという「成績主義」の温床にもなりました。これは、その後の納税者のたたかいによって、青色申告に対する更正や青色申告取り消し処分の理由付記についての最高裁の判決がたたかいとられるまで続けられました。

 シャウプ税制により新たに国税庁と各国税局に置かれることになった協議団は、国税庁長官や国税局長に対する「審査の請求」を審理するための機関として発足しました。それまでは、所得税部門や法人税部門など、直接課税の事務を取り扱う部門が審査請求の審理も担当していたので、多少の改善はあったでしょうが、結局、最終的な結論となる裁決(当時の法律では、・審査の決定・)、の原案は、主管部といわれる所得税部門や法人税部門の了承をもらわないと「決議」を上げることができませんでした。そういう機構上の問題もあり、協議官は、出世コースから外れた職員のポストといわれていました。

 シャウプ税制で「改正」された審査の決定についての条文も、「国税庁長官又は国税局長は、……(審査の)決定をなす場合においては、国税庁又は国税局に所属する協議団の協議を経なければならない」というにとどまりました。つまり、決定権者は国税庁長官または国税局長であり、条文の解釈としては協議団の結論と異なった決定をすることも可能ということです。

 こういう事情を反映して、発足当初は「開店大売出し」のように納税者に有利な審査決定も出ていましたが、次第に主管部べったりの結論しか出さないようになっていくことになったわけです。

(せきもと ひではる)

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